純ジャパから見た海外・帰国子女から見た日本

正反対の二人が海外経験を通して得た出来事をお届け。

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【Sano】「英語が喋れる」と「英語が使える」の違い

私は英語を学びだして丁度10年。

言語を学ぶのは大変だ。スッテプはまずヒアリングが出来るようになる。ある日を境目に言葉があふれだす湧き水のように出てくる。コントロールが効かなくなったようにどんどん相手の言葉が頭に入ってきて、どんどん自分もしゃべりたい!考えを伝えたい!と思うようになる。 私はタイに引っ越して、英語漬けの勉強を初めて3、4ヶ月でそこまでいったと思う。もう10年前のことだからあまり覚えていないのがホンネ。

今は周りのネイティブスピーカーと比べても不自由はない。なぜか日本人特有の訛りもほとんどなく、よくにアジア系アメリカ人に間違えられる。日本に帰ると英語が喋れるというだけでよく「すごい」といわれる。 嫌味に聞こえるかもしれないが、「すごい」といわれていつも返しに困る。「そうですね。当たり前ですが、ありがとうございます。」では嫌な人、KYな人(古い?)と思われてしまう。だって英語の勉強に努力と時間をつぎ込んできたんだもの、喋れなくてどうするの?と日本人じゃない自分がボソッと言ってしまいそうになるがそこは我慢。

でも私にとって英語とはツールでしかない。もちろんすごく大切なツールだが、それ以上でもそれ以下でもないと思っている。

英語が「喋れる」と「使える」の違いは何なんだろう?私は喋れるだけだったら言語はあまり使いものにならないと思う。だれもがまずは喋れるようになる。これは時間をかけて、お金を投資し、努力をすれば絶対に誰でもできるようになる。 でもここからが大切。英語はツールなのでそれを使ってなにをするかが問題。私の周りにも英語を喋れる人は何十人もいる。でもそのすべての人が英語を使えるかと言ったらそうでもない。 何のために英語を学ぶかによって喋るで止まるか、使うまでいくかに別れるのかもしれない。日常会話が出来るのは使うではなく喋るだと思う。日常会話で「今日天気がイイね」、「今朝はトーストと目玉焼きを食べたの」、「今週末は山にハイキングにいくの」と喋れても一対一の会話の先には進まない。

だが、英語を使える人は別だ。英語でビジネスが出来る。英語で研究の論文を書いてそれを発表できる。相手と世界情勢のことでディベートが出来る。英語を使える人たちは数人を相手に会話をするのではなく、大勢とコミュニケーションがとれる。質問をされたらそれを理解して柔軟に対応し、答えを導き出し相手に伝える。 私が英語を学び始めた最初の理由は学校に行って勉強に必要だから。最初は喋れるようになって、そこから使えるようになったのには相当な時間がかかった。専門用語を覚えたり、物事を英語でアタマにインプットして、理解し、考えて、アタマの中の引き出しをいくつも開け閉めして、答えをアウトプットする。今は生物学を主に勉強するのに英語を使っている。論文を読んだり、自分の実験結果を周りに伝えたりするのに英語はマストだ。教授とは今のヨーロッパでの難民、温暖化についてや、2017年に行われるアメリカ大統領選挙のことなんかについてもヒートアップされたディスカッションをする。

日本語や英語の言語は人間がコミュニケーションをとるために作られた。クジラは音で、コウモリは超音波で会話をする。たまたま人間界では何百種類のツールが存在するだけで、歴史が違っていたら世界中のみんなは同じ言葉でしゃべっていたのかもしれない。

私にとって英語は日本の外で生きていくツール。どう頑張っても人間は自分一人で生きていくことは出来ない。親がいて、友達がいて、先生がいて・・・。そこで言語は相手に自分の気持ちを表現したり、自分の考えを伝えたりするツールだ。もちろん一ヶ国語しか喋れないよりは数カ国語喋れたほうがいいかもしれない。でも私が出会ったことのある人の中で何人かは2、3ヶ国語を喋るけどどれも同レベルでどの言語でも難なくコミュニケーションを取るのが難しい人もいる。それよりは一つでも問題なく使える言語がある方が私はいいと思う。 だが、やはりバイリンガル、トライリンガルともなると友達も増えいろんな視点から物事が考えられるようになる。私も実際に英語で物事を考えている時と日本語で考えている時は思考回路が異なる。英語の方が論理的でまっすぐにゴールに向かっている。日本語はどちらかと言うとぐるぐる回ってやっと答えにたどり着く感じ。 でも。日本語で考えたほうがいい時もあるし、英語で考えた方がいい時もある。だから新しい言語を習得することは自分のツールボックスに新しいハンマーを足したり、ドリルを揃えたりするのと似ている。

一つ大きな違いと言ったら言語や私やアナタが学んだことは誰にも奪われないということかもしれない。ハンマーは盗まれるかもしれないが、私の言語力は誰にも奪われない。